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自分用の逸話置き場みたいなものです。
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    吉川元春の踊

    伯耆国羽衣石(うえいし)城主南篠勘兵衛元次と云ふ。初め岩倉の城主小鴨左衛門尉重宗とともに、吉川元春に従ひけるが、後には尼子に属して元春に敵したり。然るに羽柴筑前守秀吉一度山陰山陽に示し、中国を威力(いりゃく)せんとするや、又之に降り、吉川尼子を襲はんと擬す。元春其の卑劣なるを惡(にく)めども、敢て之を口にせず、小早川隆景と謀り、仕前をつけ、竹束羽石等の責具を支度して、以て両城に向かふ。然るに小鴨は早くも力の敵さざるを知り、忽ち京師に逃げ上りしからば南篠また怯み、一戦にも及ばずして、直ちに吉川に降れり。元春南篠が表裏の士たるを知れるを以て、寧ろいつわりて之を許し、計略を以て之を討ち、日頃の鬱憤を行うには如(し)かじとなし、假(かり)に之を許す。果して南篠は一旦の死を逃れ果て後、緩やかに元春を斃さんと思ひ、偏に無事を結ばんと議し、日夜踊を催し、酒宴遊興を事とせり。元春即ち此の踊りに依りて一町略せばやと思案し、進むで踊りをかけむと云ふ。南篠得たりとなし、頗る同心の由を返事す。元春太鼓鉦(かね)にて拍子をとり
    此の方のお庭を借り申さう。
    と謡ひながら踊り入り、引くときは
    明年まいらう又まいらう。
    と、拍子につれて踊出づる事既に両三夜に及ぶ。南篠元来踊りを好みければ、大いに之を興じて、偶々元春を伺ふことを忘れ、余念なく見物し居たる所を、元春良き隙なりと思ひ、今まで踊り囃せし拍子を替えて、新たに鉦を入るれば、旨を心得たる踊の者、眞前に進み、各自懐剣を抜きつれて、南篠に切つてかかる。南篠もかねて此の踊の庭にてと、思ひ設けしことなれども、聊か油断せし時なりしかば、以ての外に狼狽し、終に敵はず、城を明けて落ち行きたれば、元春本意の如く、刃に血濡らずして羽衣石岩倉の両城を抜くことを得たり。後人評して曰く、
    元春の既知良く其の功を労すと雖(いえど)も、亦堪忍の力興(あづか)つて其の因を屠せるなり。

    --
    許した部分も策略のうちのように思える。
    山中鹿之助に対して許したのもうまくできれば手駒に、できなければ後々放逐か云々のつもりだったのだろうか。その前に鹿之助は斃されるけども。
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    加藤嘉明度量の事(関ヶ原)

    其あくる夜忍びて加藤嘉明の陣所を通る者ありとらへて忍びか火付けか切つて捨てよといふに嘉明其士は主君の為に死を顧みず吾陣所の備え怠らず彼いかにして吾を窺ふべき殺すと殺さざると勝敗に関わらずとて追はなたれけり

    (常山紀談)

    ――
    前述の寺沢廣高とセット。
    ふりがながよしあきとなってたりよしあきらとなってたり。
    寺沢広高加藤嘉明度量の事

    関ヶ原にて東照宮いまだ岡山に御着陣なき已然諸大将地の利によりて面々陣取りたりしに或夜諸陣俄かに騒ぎけり寺沢志摩守廣高臥しながら徐に我既に聞ひたりと言ひて鼾かいて寝られけり廣高士六人歩の者六人を物聞とぞ三番に互いにかはりて途(みち)を異にして小しの事も必告夾る今夜告夾らざれば夜討にあらざる事を元より知られたるゆえなり

    (常山紀談)
     
    ついったの辞世の詩bot様から。すみませぬ・・・。

    『わが恋は 三島の浦のうつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ』 鶴姫
    (神官の娘:三島水軍を率いて大友義隆と戦い勝利を収めるも、戦死した恋人の後を追った - 享年:18 - 戦国時代)
    『晴蓑めが魂のありかを人問はば いざ白雲の空と答へよ』 島津歳久
    (武将:秀吉の征伐命令により兄島津義久に攻められた - 享年:56 - 安土桃山時代)
    『何を惜しみ 何を恨まん もとよりも このありさまの 定まれる身に』 陶晴賢
    (戦国武将:大内義隆に使えるも謀反を起こす - 享年:35 - 戦国時代)
    加藤嘉明と鷹匠

    鷹匠某一日嘉明に向かひ、鷹の鳥に騒ぎ立ちたる所を引摺え引き戻しては放つ時は、手元にて一寸の控なれども、先にて十間の延びに成るものなりと教へければ、嘉明之を聞き、其方が鷹の使方を教へたるにて、我武士の使方を会得したりとて、大いに賞美せりとなん。

    (評)達眼。古人曰く、道は近きにありと、宣哉。
    (武人百話)

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    武人ですなあ。
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